東丸神社

ご祭神

  • 荷田東丸

ご利益

東丸神社の基本情報

住所
京都府京都市伏見区深草藪之内町36
アクセス
JR奈良線「稲荷駅」徒歩約5分
京阪本線「伏見稲荷駅」徒歩約10分
駐車場
駐車場有り
詰め所
詰め所あり(有人)

東丸神社の御由来

ご祭神の荷田東丸(春満)大人は1669年1月3日、この地に誕生されました。
本名は羽倉信盛といい幼少より歌道や書道に優れ、国史、律令、古文古歌さては諸家の記伝に至るまで独学にて博く通じ、内容の乏しい典型的な堂上歌道を打破して自由な本来の姿に立返らせようとしました。

9歳の時から妙法院宮に歌道の師匠として講義をされましたが、大人は当時幕府が朱子学を政治の指導理念としていたため、書を学ぶ人はみんな極端に漢風にのみ走るのをみて、古学廃絶の危機を感じて、古学復興こそ急務であるとされました。

「われならで かけのたれをの たれかよに あかつきつくる こえをまつらむ」

この一首を残して、文化の中心である江戸に向かわれました。
江戸にいる間、大人はあえて師を求めずに、日夜独学を行い、門人たちに古文を講じました。

その卓越した学識は世に聞こえ高く1722年に徳川将軍吉宗は大人の名声を聞きつたえ、幕府の蔵書閲覧をことごとくたのみました。大人は、その間違いなどを訂正し不審な点は細かく説明されました。

その後も徳川吉宗より建議などあらゆる方面の書籍の推薦や検閲の特権を与えられ、偽書の跡を絶たれました。
1723年錦衣へ帰郷された後も日夜研究著述をされる傍ら、賀茂真淵など門人多数に講義をされておりました。しかし、古学普及のためその宿願であった倭学校を東山の地に創建しようと幕府に提出するため『請創造倭学校啓』をかかれましたが、志半ばの1730年に病におかされて、68歳を持って帰天されました。

大人の病の一報を聞いた徳川吉宗は度々秘薬を送っていました。

東丸大人には著書がおびただしい数ありましたが、そのうち研究が未だ足らないものを残すことは構成に災いがあるとして、臨終の際に童子に命じて焼いてしまいました。しかし、今なお神祇道、日本史、律令、格式、有識古実歌学及び語釈に関する遺著や遺墨
が多数残っています。

大人の学徳を偲ぶ有志の人々が荷田低の一部であるこの地に社殿を創建し『学問守護』のかみとして広く崇敬されております。

東丸神社は御祭神の邸宅跡の一部に建っていますので、伏見稲荷大社と境内が隣接していますが別の神社です。

東丸大人と赤穂義士

東丸大人の逸話のうちで、江戸に滞在中の門人に古典古学をろんじておりました。
吉良上野介もこの一人でしたが、大人は吉良上野介の日頃の汚行を見聞きして教えることをやめられました。

たまたま、1730年に以前から親交のあった大石良雄の訪問をうけ、その後、堀部弥兵衛、大高源吾とも交わり吉良邸の見取り図を作り、大高に与えて12月14日吉良邸に茶会のあることを探って赤穂義士を援助したともあります。

東丸神社の主な祭典

3月3日・・・例祭

清水 宏積

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